川口慧海(かわぐち・えかい 1866-1945)は、明治時代、鎖国体制下のチベットに単身ヒマラヤを超えて潜入し、『西蔵(チベット)旅行記』を著したことで世界的に知られる仏教者、仏教学者です。
堺(和泉国)の樽職人の息子に生まれ、15歳で仏道に志を立て、出家しました。
28歳の時、宇治の黄檗山万福寺の塔頭で、大蔵経を読み、チベット行きを決意し、32歳の時、神戸を出港しました。
彼のインド・ネパール、チベットを巡る旅は、前後2回、通算17年にも及びました。
志とは
当時の仏典は中国の漢字で書かれ、他の仏典と比較すると若干異なることがありました。お経はもともと、インドのサンスクリット語で書かれているので、より、原点に近いチベットを目指しました。チベットでも翻訳され、より正確であると言われていたからです。
彼は、「わかりやすく、正確な和訳の大蔵経を作って、日本国民の大安心(だいあんじん)の基礎としよう」としました。
北旅籠町に残る生家跡と昔の風情が残る街並み
七道駅には慧海の銅像があります。
神戸からインドのカルカッタへ向かい、紅茶で有名なダージリンでチベット語を学びました。それから、ネパールのカリ・ガンダキ峡谷に入り、無スタン地方のツァーラン村に着き、トルボ地方を通り、チベットの国境を越えて、西チベットのマーナサローワル湖、カイラース山を巡礼しました。
そして、チベットの禁断の都ラサにたどり着きました。
2回目の旅行は、シッキムのティスタ川に行きました。そこで、大量の資料を我が国にもたらしました。多くのヒマラヤの植物・動物・鉱物の標本を持ち帰りました。
帰国後は、本を出版し、布教活動に従事し、教育し、日本の人を安心させました。傍ら、大乗仏典の現代語訳を次々に刊行しました。
彼は還暦を機に、還俗を発表し、翌年、在家仏教修行団を発足し、晩年は『蔵和辞典』の編集に没頭しました。
1.『川口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』/川口慧海著、奥山直司編、講談社学術文庫、2007年
2.『チベット旅行記』(上・下)/川口慧海著、講談社学術文庫
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